住みたい街に住むということは、どこに住んでも揺るがない、自分自身を築き上げること
夢を叶えるためには「東京」へ。そんな思いこみが10代の私にはありました。
地方都市出身者が抱く、日本の中心地に対する「憧れ」と「コンプレックス」。そこに住みさえすればキラキラとしたチャンスがたくさんあって、誰かが私を見つけだしてくれる、そんな甘い妄想を抱いた、まだ子供だった私が憧れた街。
夢を叶える街に憧れ「住みたい!」と願った
10代の頃から音楽で世に出たい!と考えていた私は、「チャンス」を貪るように探しました。若いころの思考は単純で、そこに住みさえすれば、その街に紐づけさえすれば、キッカケがたくさん舞いこんできてチャンスをものにできる、そんな根拠のない自信と甘い妄想にとらわれていました。
高校3年生の進路指導で「卒業したら、どんな形でもいいから東京に住む!」と訴えて、先生と親から羽交い絞めにあった経験も、幼い発想しかできなかった自分も、いまは愛おしいと思える年代になりました。
関西生まれの関西育ち、関西弁バリバリの関西気質はいまも抜けていませんが、10代に抱いた妄想に近い夢はとっくの昔に打ち砕かれ、野心なんて使い果たしたころ、東京に移転することが決まり、いま、当時の憧れの街に住んでいます。
「街」と「生活」を紐づけると「生きる」になる
振り返れば30年の月日が過ぎ去り、純粋に夢を追いかけていた、子供だった自分を懐かしく思います。人生というものは過酷なもので、当時の憧れの街に移り住むまでの30年は、私に「人生とは」を教えるための時間でした。
「街」と「生活」を紐づけると「生きる」になると思います。「街」にはそれぞれの風習や習慣、環境に伴う制限があり、そこに「生活」が密着しているからです。
東京に憧れを抱いた10代からの30年という時間のの中で、最初に私に訪れた、生活を伴う「街」の変化は「国」の変化をも伴う大きなものでした。大学卒業後の海外留学が、初めて親元を離れ、「ひとりで知らない街に住む」体験でした。
「街」と「国」3段階飛ばしの変化が「生きる」を鍛えた
アメリカの東海岸、マサチューセッツにある小さな街、ノースハンプトン。そこが、私が初めて移り住んだ街です。スパイダーマンが生まれた街として、小さなミュージアムがあり(いまはもうないかも…汗)、どちらかというと東海岸特有の上品で素朴な街。街の周りに大学が5校くらいあったので、学生がたくさん住んでいた街でした。
音楽を志していた私にとってアメリカ東海岸は憧れの街が多く、ノースハンプトンを起点にして、何度もニューヨークやボストンへ訪れました。毎日が新鮮で刺激的で、目に見えるもの、体験すること、そのすべてがキラキラしたものでした。
憧れの街に佇む自分に浸り、その街で繰り広げられたであろうサクセスストーリーに想いを馳せ、いつか私も…と根拠のない自信を膨らませていきました。完全なる妄想です(笑)
初めて親元を離れて移り住んだ街が異国であるという事実は、ある意味、私の人生の中で3段階飛ばしくらいの衝撃があり、そのおかげで私の心は鍛えられ、「生きる」ということがどういう意味を持つのかを学ぶ時間でした。
「生きる」は、いいことばかりではない。どんなことも「on my own」。自分自身で乗り越えるしかない。
言葉が通じない、食べ物が合わない、人種差別がある、孤独…など、日本では想像もつかなかったことを次々と体験し、ストレスで500円玉くらいの円形脱毛症を2つもつくりながら「生きる」を実践していきました。
そんな私に、当時、英語を教えてくれていたイギリスからの移民であるTimが「Kaori、常識ってどういう意味だかわかる? 単に大勢多数の意見でしかないんだよ…」と教えてくれ、この言葉が、これからの私の「生きる」の道しるべとなりました。
「生活」を考えると「安住」を求めた
アメリカではノースハンプトンを始め、短い期間ではあるけれど、ボストン、ニューヨークと「憧れの街で住む」という体験をし、その体験は世界の中心を感じる、ワールドワイドな視点や考え方、たった1つのトップの座を競い合うメンタリティを、甘チャンだった私に身につけさせる体験となりました。
当時、電話やネット回線などの通信機器は恵まれておらず、いまのように海外でLINE通話ができたり、ネットで日本の情報を入手したりはできませんでした。「異国」である海外で、孤独であっても乗り越えて前に進むしか方法がありませんでした。言いたいことが伝えられない、理解してもらえないなどの違いからくるストレスを解消するのも自分自身。何より、アメリカでは私自身が「外国人」です。
違いをリスペクトする考え方を学びましたが、違いだらけの中での「安住の地」は見つけられず、心の安らぎを求めて帰国する決断をし、大阪に戻りました。
結婚という名のライフイベント・夫と妻の「住みたい街」のギャップ
次に大阪を離れたのは、結婚というタイミングでした。
いまは離婚しましたが、当時の旦那様が「iターン」希望者で林業に携わりたい夢をもっていたので、和歌山の山あいの村で「田舎暮らし」を体験しました。
大阪、ニューヨークなどの大きな街で住んでいた私にとって、山あいの村での「田舎暮らし」は、素朴で人間らしい営みが繰り広げられている場所でした。
山や川、自然に囲まれる癒しの空間、生木が香る天然のアロマ、初めてのことだらけの環境で「便利ではないけれど人間らしい暮らし」を満喫し、自然に癒されました。
ここでは「大きな街にあって、山あいの村にはないもの、それを補うための知恵を使いながら人間らしい暮らしを営む」ということや「足るを知る」ということを学びました。便利と引き換えに癒しを手に入れる、そんな生活だったと振り返ります。
ただ、大きな街で育った私にとって「田舎暮らし」があっていたのか…という面では、疑問が残りました。TVで観る「田舎暮らし」のようにはいかず、短期間なら生活できても長期間の生活では問題点が山積みで解決できず、結局、離婚とともに大阪に戻る決断をしました。
結婚というライフイベントでは、私個人の「住みたい街」を選ぶことは難しく、「相手が望む住みたい街」と「私が希望する住みたい街」のギャップを埋めるのは難しかったです。
既婚者は「住みたい街」への個人の自由な選択ができない
夫婦、家族という単位で「住みたい街」を考えると、既婚者には個人の自由な選択は難しくなります。私が自由に「住みたい街」に移れたのは、ひとりだったから。夫婦、家族が住みたい街を選ぶには、家族の成長に伴う変化も必要なのだと感じます。
「街」と「生活」が紐づけされている以上、環境に柔軟に慣れ、たくましく暮らしていくことが大事なのだと思います。
住みたい街に住むということ
いま、10代で憧れた街、東京に移り住み、思うことがあります。10代のころ、あんなに憧れて求めて、執着した東京に住むということは、きっと「東京に住む」ことではなく、夢やチャンスに執着したのだと思います。
当時の夢は打ち砕かれ、野心なんて使い果たしたころ、自然な成り行きで東京に移転することが決まり、不思議な気持ちになりました。もしも、あのとき、無理やり東京で住んでいたとしたら、どうなっていただろう。「街」と「生活」で考えると「生きる」を満喫できていたのだろうか…
私の場合、極端なくらい違う環境の「街」と「生活」の変化を経て、タフなメンタリティづくりが必要だったのだと思います。
大都会、世界の中心都市、海外の街、田舎暮らしを体験して、どこで住んだとしてもガラリと変わる新しい環境に適応し、タフにならないと乗り越えられない体験から「生きる」を鍛えられたいま、憧れていた東京に住むというご褒美をいただけたのかもしれません。
住みたい街に住むということは、どこに住んでも揺らがない、自分自身を築き上げること。違いを受け入れ、リスペクトし、ともに生きる道を模索する。そこが大事なのだと学びました。
written by 上平薫里:人材育成コンサルタント
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